85年に累計500万台達成。そしてクーパー復活へ
86年になると、本国のオースチンローバーと日本のARJの連携は緊密になり、日本へのミニの供給も徐々に熱を帯びていく。
とはいってもクーパーS無き後のミニは、輸入車の中では低価格な部類であったから、ARJの収益を支えたのは同じく輸入販売を手がけていたフランス、プジョー車の販売だった。
ミニ以外にもMGマエストロやオースチン・モンテゴといったオースチンローバーグループの車両も扱っていたが、当時の英国車は品質が低く、特に新しくて高級車になるほど酷いものだったから、ほとんど売れなかった。
その点ミニは相変わらずキャブレターでポイント点火のシンプルな構造であり、ミニ専門店のこれまでの経験もあって、車検時には予防整備もしていたことから、大きなトラブルは避けてオーナーはミニライフを満喫できた。



85年にはついにミニの生産台数が500万台を超えた。この頃になると、ミニの販売は英国内と日本のウエイトが大きくなっていく。限定車の日本市場への割り当てがどんどん増えていくのである。日本市場向けにアレンジした日本仕様ならではの限定車も登場するようになる。
その一方で英国内だけで販売された限定車も存在し、それらを日本に並行輸入するミニ専門店もあった。
例えば本国ではデザイナーブランドのマリー・クアントとコラボレーションした限定車「デザイナー」をリリース。これは英国内だけで2000台が販売されたが、日本にも並行輸入され人気となった。ボンネットのバッジは未だに女性ユーザーには人気のアイテムだ。

日本でのミニの通常ラインナップはメイフェアのみとなった時期もあったが、年に2,3度発売される限定車はいつも人気でたちまち完売していた。
そうした限定車たちはミニのラインナップに彩りを与えたが、それでもミニは小さくて安いクルマの代表格でしかなかった。ブリティッシュレイランドに技術力があれば、ミニはとっくに生産を終了していたのだ。
しかし、そんな中にも一筋の希望が見えてきた。それはミニマルヤマの丸山和夫氏が単身英国に渡り、隠居状態だったジョン・クーパー氏を探し当て、クーパーモデルの復活を成し遂げるのだ。
そして1987年、ここからミニの人気は再び盛り上がるのである。
しかしすでに87年にはミニマルヤマがジョンクーパーキットを発売しており、その兆しは静かに広がりつつあったのである。
この当時の限定車は、後のクーパーをはじめとした1.3Lモデルの人気に押されて、残念なことに現在は日本にほとんど残っていない。レストアしてキレイに仕上げれば、なかなか魅力的な存在だと思われるだけに、少々惜しいと思うのは我々編集部の意見だけではないだろう。