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モンテカルロラリーにおけるミニの奇跡。ミニ・クーパーの誕生とそこから続くラリーでの快進撃#2

ミニが850ccの頃から欧州ラリー選手権(現在のWRC)に参戦し、非力なマシンながら特定のステージでは非凡な速さを発揮するマシンと認識され出した頃、英国では速いミニの開発が進められていた。

それはクーパーガレージで開発されたフォーミュラマシンがきっかけだった。当時チームのドライバーだったジャック・ブラバムやブルース・マクラーレンといった後のF1ドライバーたちは、セカンドカーとしてミニに乗っており、奇しくもF3マシンにも同じA型エンジンを搭載していた。

そこでミニのハンドリングを楽しんでいたジャックやブルースはメカニックと共に、自らのミニにレーシングカーのパーツを移植して、さらに過激な走りを可能にしていたのだ。

ミニクーパーのカタログに使われたこの写真は、実際にクーパーガレージがサーキットで撮影した写真がベースであり、ボンネットのエンブレムを後から合成したことは有名な話だ。

これがツーリングカーレースでも十分に戦える可能性があると判断したジョン・クーパーは、友人であるアレック・イシゴニスを訪ね、ミニの高性能モデルの実現を相談した。

しかし頑固なイシゴニスは、首を縦に降らず、話は進まなかった。当時F1GPでコンストラクターズチャンピオンを獲得していたジョン・クーパーは相当な自信家だったので、己の信念を曲げず、別の手段でアプローチすることにしたのだ。

それはBMCのマネージング・ディレクターであったジョージ・ハリマンと交渉することだった。彼はミニが鳴物入りで発売されたものの、やや高価だったため思うように販売台数が売れていなかったことから、何か対策を考えていた。

そこでクーパーは、ハリマンにミニの高性能モデルを作ってそれをレースで走らせれば、いい宣伝になると持ちかけたのだ。その言葉に興味をもったハリマンは「ならば1台試作してみてくれ」と応じたのだ。

BMCからベースのミニを1台預かると、それにF3のエンジンやSUツインキャブを搭載し、使いにくかった長いシフトレバーからドライバーの近くまでリンケージを延長したリモートシフトを組み付けた。さらにロッキード社のジャック・エモット会長とも懇意にしていたことから、同社が10インチのミニ用ディスクブレーキを開発していることを聞きつけ、それも取り寄せて組み込んだのだ。

出来上がった高性能なミニは、サーキットで目覚ましい走りを見せた。その情報は当時BMC会長だったレナード・ロードのところまで届き、ミニの高性能モデル、ミニクーパーを生産することが決定するのである。

そして販売される前に、欧州ラリー選手権を戦うワークスチームのミニには、早速ミニクーパー用のパーツが組み込まれた。その結果、ミニはみるみる速さを高め、61年のラリーではクラス優勝し、総合でも3位に入って表彰台を獲得できるほどになったのである。

61年の秋にミニクーパーが発売されると、今度はミニクーパーをベースとしたマシンで欧州ラリーを戦うようになる。ちょうどその頃、アビントンのBMCコンペティション・デパート(BMCの競技専門部門)にあるスタッフが加入する。

スチュアート・ターナー、モーターリング・ニュース誌のラリー記事担当だった彼は、かつてラリーのナビゲーターとして数々のレースで活躍してきた名選手であった。

大学では会計学を学んだこともあって、データに基づいた戦略を立てラリーを戦う術を心得ていた。現在は当たり前の仕組みだが、当時は頑丈なマシンを作り、あとは現場任せで無我夢中で走り続けるのみというのがラリーの戦い方だったのだ。

スチュアート・ターナーと新型ミニ・クーパーにとって、レース参戦は1962年のモンテカルロ・ラリーからとなった。パット・モスは、準備不足によるスロットルケーブルの破損など、いくつかのトラブルを抱えながらも区間タイムでは最速を刻んだ。彼女は名前の通りスターリング・モスの妹であり、兄同様非凡な才能をもったドライバーだった。

モンテカルロラリーで、ミニクーパーの実力を証明した後も、ワークスミニの快進撃は続いた。1962年のチューリップ・ラリーでは、パット・モスとアン・ウィズダムがミニ初の国際ラリーでの完全勝利を収めたのだ。彼女のミニ・クーパーは、すべてのステージで最速タイムを記録。その結果、クラス毎のハンデもあり圧倒的な差をつけて優勝した。この時、なんとミニは1,000ccクラスの上位8位を独占したのである。

1962年のアルペンラリーでも、グループIIとなるミニクーパーはハンディキャップ制度を利用した有力な選択肢と目され、若手ラウノ・アルトーネンをエントリーさせた。ミニはギアボックスのトラブルとオーバーヒートでリタイアしたが、そのパフォーマンスはライバルのツーリングカー勢を震撼させた。

RACラリーでは、997クーパーでグループIIクラスを制覇したのは、当時あまり知られていなかったフィンランド人の、ティモ・マキネンだった。

ワークスMINIが主要な国際イベントで勝利を収めるポテンシャルを初めて証明したのは、1963年のモンテカルロ・ラリーでラウノ・アルトーネンが総合3位に入った時だった。これは1071ccにエンジンを拡大したクーパーSのデビュー戦でもあった。

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