ミニ誕生、クルマの歴史に革命を起こす。伝説はここから始まった
1959年、革新的な小型車オースチン・セブン/モーリス・ミニ・マイナー登場! しかし最初は小さく高く、売れず…。だが、その性能と品質の良さでミニは、徐々に認知度を高めるのだ。
ミニが誕生したきっかけは中東戦争による石油危機
ミニが登場した1959年から遡ること3年、欧州ではエジプトと英仏とでスエズ運河の利用権争いによって、第二次中東戦争が勃発する。そしてエジプトに加勢したシリアがパイプラインを封鎖したことで、欧州への石油の供給が一気に減少してしまうのだ。いわゆるスエズ危機である。
これによって石油をはじめとした物資の価格が上昇したことから、自動車業界は大きな転機を迎えるのだった。
1912年にT型フォードが導入した流れ作業による大量生産は、その後多くの自動車メーカーが倣っていったものの、作業効率の低さや作業の煩雑さもあり、生産ペースはそれほど上がっていなかった。なにより自動車自体、庶民の手に渡るにはまだまだ高価で、それほど売れるものではなかったのだ。
その頃、庶民が移動手段として使っていたのは、ロンドンバスや蒸気機関車といった、国営の公共交通機関であったが、その利便性はとても十分とは言い難かった。
ラストマイル(自宅から目的地までの移動のうち、その前後端の移動)においては問題は解決せず、まだまだ移動の質が問える状況ではなかった。その頃、庶民が乗っていたクルマは日本の軽自動車(初期の360ccモデルとの比較)以下のミニカー(泡のように脆い作りからバブルカーとも呼ばれた)と呼ばれる華奢で小さな乗り物であり、とても安心して乗れるものではなかった。
当時のBMC(ブリティッシュ・モーター・カンパニー=オースチン、モーリス、MG、ライレー、ウーズレーを擁する英国の自動車グループ)会長であったサー・レオナード・ロードは、この状況を憂い、アレック・イシゴニスに国民の足に相応しい国民車を作り上げることを命ずるのだ。
ロード会長からの「新型小型車の開発には、エンジンは既存のものから選ぶこと」という制約も、むしろイシゴニスにとっては、挑戦しがいのある課題にしか映らなかったようだ。その代わり、良いと思った構造のためには、新技術や高価な素材も惜しみなく投入した。
例えば83年までミニのシャーシを支えていたのは10インチのホイールとタイヤであったが、当時でもここまで小径のタイヤホイールを乗用車用として利用するのは、考えられないほどの難題だった。しかし、イシゴニスはコンパクトな車体で広い室内を実現させるため、ダンロップに専用タイヤの開発を依頼したのだ。
最もコンパクトなA型エンジンを採用し、変速機はエンジンの真下に置くことでパワーユニットは縦も横も驚くほどコンパクトにできた。さらに当時は不可能だった横置きFFの駆動方式も開発されたばかりの等速ジョイントを採用することで実現させた。

フロントサスペンションはこの大きさではありえないほど複雑で高度なWウイッシュボーンとしたのも、10インチタイヤを正確に支え、直進安定性を確保するためだった。
さらにリアサスペンションはリンクを使うことにより、ラバーコーンスプリングをサブフレーム内に水平マウントさせた。こうしてタイヤハウスの張り出しを抑え、コンパクトなボディながら、十分な広さの居住空間を実現したのである。
誰にも文句を言わせない、圧倒的な性能を実現するために、イシゴニスは徹底的にこだわったのだ。
今日の自動車開発では、チーフエンジニアが全体をまとめる役割を担い、パワーユニット、足回り、インテリアなど各部分にいる何百人ものエンジニアが開発に携わる。さらにクルマの仕様を決めるには、重役たちの意見を集約し、ほとんどの役員が納得のいく内容に仕上げる必要がある。
それでは万人に嫌われないクルマはできるだろうが、熱狂的なまでに支持されるクルマとはならず、結果として便利なだけの乗り捨てられるクルマしか生み出せない。ミニの開発は、一人の天才エンジニアがスケッチに描き出した理想の小型車像を具現化するためだけに、確固たる意思を貫いて進められたのだった。
効率的な生産方式と構造の採用とボディバリエーション
そこでイシゴニスはミニを開発するにあたり、生産コストを抑える工夫として、完全流れ作業によるライン生産方法を取り入れる。
モノコックボディはボディの外側からスポット溶接で組み立てられることで、職人たちはたちまち組み上げることができた。
パワーユニットやサスペンションはサブフレームにマウントされ、ボディの下側から一気に搭載される構造。こうすることで、1つ1つの工程をラインに乗せただけの従来の生産方式とは格段の差で、ミニは効率よく作り上げることができるようになったのだ。

ちなみに当初のミニの車名はモーリス・ミニ・マイナーとオースチン・セブンであった。
モーリスではヒット作となったマイナーの後継車としてミニとの語呂合わせにマイナーを付け、オースチンでは戦前のヒット作だったセブンの名を与えたのである。
1960年にはボディを延長したバンとエステートモデルが用意された。ワゴンのエステートモデルはモーリスではモーリス・ミニ・トラベラー、オースチン版はオースチン・セブン・カントリーマンと名付けられた。
その年の終わりには、ノッチバックボディのウーズレーホーネット/ライレー・エルフが追加され、61年にはピックアップも追加された。そして62年にはオースチンもセブンからミニへと改名する。



