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1979~89 BLMCを支えたMkIV以降のミニ1000#1

これまでミニの人気には何度も盛衰があった。そうした見方をすれば、この70年代後期から80年代は明らかに人気低迷の時期に当たる。しかし、安いだけの理由で売れた時代、それでもミニは人々に愛されていた。

ミニが英国メーカーを下支えした時代。コストダウン必至

 70年代も半ばに到達する頃になると、排ガス規制や衝突安全規制に対応する自動車メーカーの姿勢が、その製品作りへと反映されていく。

 技術力の高いメーカーは排ガス規制や安全基準に対応しながら、走行性能やボディの成形技術、快適性などを高めて商品力を磨き上げていた。

 残念ながらブリティッシュレイランドには、そうした力は残っていなかった。それどころか往年の高級ブランドも品質低下により信頼性が低下していまい、それは英国病とすら呼ばれるようになってしまったのだ。

 もちろんミニに代わる小型車の開発も行われていたが、当時のレイランドの技術力では開発コストをかけてもライバルメーカーを凌駕するような小型車は生み出せず、個性的でコストパフォーマンスに優れたミニを上回るような魅力的なクルマは存在しなかったのだ。そのためミニの生産を続ける選択をしたのだ。

 そこでミニに施されたのは、更なるコストダウンであった。

 センターメーターは廃止され、ステアリングの前に二連のメーターパネルが装備された。モダンな印象を与えようとしたのだろうが、これまでのミニを知っているユーザーからすれば、プラスティックの射出成形品であるメーターパネルは、質素な印象でしかなかった。それでもミニはコスパに優れた個性的なクルマとして、幅広いユーザー層から支持されたのだった。

 クロームメッキさえ省かれたグリルとバンパーを与えられたミニ850は、質素な雰囲気を放っていたが、実際に価格も安かったので、それなりには売れた。

 しかしこれは、生産工場の稼働率を維持するためには貢献できたが、利益としては相変わらず少なく、BLMCを支えるには不十分なものであった。

 日本では排ガス規制に対応できなかったため、正規輸入は一時中断された。そのためオースチンのディーラーであったキャピタル企業は、カナダ仕様の中古車を仕入れて販売するという、苦渋の選択をするほどであった。

 その頃の輸入車(当時は外車と呼んだ)は、軒並み排ガス規制で元気を失っていった。その一方で、インジェクションを導入していち早く排ガス規制に対応していった日本車が台頭していったのだ。

 しかしミニは作られ続けた。80年代に入って生産台数が半分以下になっても、ミニを作ることでBLMCは工場を維持出来ていたからだ。

 これはミニにとって冬の時代とも言える出来事であった。

限定車から徐々に流れが変わり始める

 80年代も半ばに入ると、BLMCから社名変更したオースチン・ローバーは、ミニに様々な仕様を施した限定車をリリースし始める。

 それまでもミニの後継車を模索してきたが、ライバルに太刀打ちできず、ミニの鮮度を保つためのドレスアップをして売り出すことにしたのだ。

 発端は83年のスプライトだった。ベーシックなシティと高級グレードのメイフェアの中間となる仕様で、気軽に乗り回せながらもチープ過ぎない限定車は人気となった。そこでオースチン・ローバーは、翌年から個性的な限定車を次々とリリースするようになる。

 84年にはミニの25周年を記念したミニ25を発売。この頃にはついにミニのホイールが12インチとなった。

 その10年前に1275GTのオプション設定で12インチは導入されていたが、標準での12インチホイールは、これが初めてのことだったのだ。

 12インチ化はタイヤが低扁平となって高速時の安定性が高まるほか、ディスクブレーキを標準装備として、大きなディスクローターを組み込めたことから、制動力も大幅に向上した。

 12インチ化に伴って、小さなオーバーフェンダーが追加されたことも、この頃からのミニのスタイリング上のアクセントになった。

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