ルックスに手を加えミニの伝統的な顔つきを手に入れた第二世代
クーパーSの登場とモータースポーツでの活躍によって、知名度と人気が高まったミニであったが、60年代半ばを過ぎるとスタイリングに古さを感じさせるようになる。そこでBMCはデザイン鮮度を取り戻すべくミニに手を加えるのだ。
ミニのシンプルで素朴なスタイリングは今でこそ愛らしい存在として人気だが、新車で登場した当時のミニは小さくて素っ気ない、それでいながら割高なクルマと思われていた。
合理主義者だったイシゴニスは、ミニに余計な装備を与えることを認めさせず、必要最低限の性能と装備に留めさせるのだ。
結果としてミニにはアクセサリーパーツが豊富に揃い、パーツメーカーとクルマ好きを喜ばせることになるのであった。
クーパーSは、ミニに高級感とスポーツカー顔負けな高性能ぶりを与え、マニア垂涎のクルマとして君臨していた。それでも60年代も半ばに入ると、ライバルたちに比べ質素で古さを感じさせずにはいられなかったのだ。
当時の流行は意外なほど移り変わりが早く、アメリカ車などは毎年のように大胆なフェイスリフト(見た目を変えるマイナーチェンジ)を繰り返していた。英国車はそこまでの頻繁な変貌ぶりは見られなかったけれど、クルマにとってスタイリングが与えるユーザーの印象は売れ行きを大きく左右する。
そこでBMCの経営陣らは、ミニの印象に鮮度を取り戻すべく、リファインを命ずるのである。と言っても、即座にできることなど、たかが知れていた。
フロントマスクのイメージを変えるべく、柔らかい曲線で構成されていたMkIのフロントグリルは大きな六角形のフレームが与えられることになった。そしてリヤエンドのテールランプも小判形から長方形へと改められた。結果としてこのデザインはその後30年以上も受け継がれ、ミニのアイデンティティの一要素にもなったのだった。



外装面のマイナーチェンジを受けただけでなく、トランクパネルの裏板が合板から鋼板にされ、シート形状も変更された。スーパーデラックスはエンジンが998ccとなり、シフトレバーもダイレクトにミッションケースから伸びるタイプから、リンケージを介してフロアから生えるリモートタイプになった。
しかしイシゴニスのこだわりで、スライドウインドウは採用したままだった。室内幅が広く採れ、大容量のドアポケットも使えるこのデザインがイシゴニスはお気に入りだったのだ。
室内は華やかな印象を与える金や銀の加飾が入ったブロケイドのシート表皮から、モダンな印象を与えるブラックでシックな仕立てへと切り替えた。
エンブレムも文字だけのシンプルなMkIのものから、フロントは台形や楕円形、リアは舟形の中央に紋章入りのサークルが入り、クーパーSはモータースポーツを印象付けるチェッカー柄があしらわれるなどデザインも凝ったものが与えられた。



しかしクーパーSではエンジンは1275ccのみとなり、1000ccのスタンダードクーパーとの2本立てというラインナップとされた。
エステートは1000ccエンジンに、69年には累積200万台生産!
ロングボディのエステートモデルはエンジンが850ccから1000ccへと拡大され、動力性能が強化された。ノッチバックのライレー・エルフとウーズレー・ホーネットはいち早くMkIIIとなって、巻き上げ式のサイドウインドウやコンシールドドアヒンジなどをいち早く採用した。
こうした変更でリファインされたミニは、販売台数を増やしていき、1969年には累積200万台という記録を達成する。 しかし小手先の変更では人気は長続きしないと知っていたBMCは、抜本的な改良を加えるべく、あらゆる部分に見直しが検討され、ミニに初めての大掛かりな仕様変更が施されることになるのだ。
そして60年代後半にはミニにとって、またもセンセーショナルな事が起こる。ミニを主役とした映画が公開されるのである。「イタリアンジョブ(邦題ミニミニ大作戦)」は、銀行の金庫から金塊を盗み出した泥棒がミニを操って逃走し、イタリア警察を手玉に取るという痛快なストーリーの映画だ。

撮影の関係上、69年公開でもミニがMkIなのはご愛嬌だが、BMCはこの映画に全面協力していたのだろうと思いきや、実情は違った。
ジャガーとの合併前のゴタゴタにより、予算が十分に取れなかったことから、一部を卸価格で販売する程度で、大半は制作会社が定価で購入した。それでもミニならではの走行シーンにより、映画は反響を呼んだ。
60年代前半から、すでにカーライフを充実させるアクセサリーは存在していたが、60年代後期になるとその品数とクオリティはぐっと深まる。
純正アクセサリーだけでなく、有名ブランドやショップオリジナルのアクセサリーも出現して、チューニングもカスタムも盛んになっていった。



日本でも表参道や青山といったファッションのトレンドを発信する地域でミニのパーツを扱うカー用品ショップができて、週末になると表参道の路肩にはミニや輸入車のスポーツカーなどが並んで駐車していたらしい。
日本ではディーラーだったキャピタル企業が徐々に本格稼働を始め、ミニの販売台数も増えていった頃である。日英自動車や黒崎内燃機、関西自動車といったディーラーがミニを販売していたが、まだまだ販売は限られていた。
60年代後半は英国車の勢力が急速に衰えてきた時期であった。だがドイツ車やアメリカ車が勢力を拡大するなか、徐々に劣勢になっていく英国勢でもミニは根強い人気で支えられていた。