ミニの前後にエンジンを搭載した4WDモデル、ツイニィはそのボディサイズから考えられないほど高性能であったことは想像に難くない。しかし当時のエンジン制御機構や運転操作機構を考えると、そのような複雑な構造のクルマは、前後の駆動力のバランスや運転操作によって制御することは困難を極めたに違いない。
ツイニィは何台かが作られ、テストされたと言われているが、操縦の難しさは伝説にさえなっている。その犠牲となったクーパーは長い間、療養生活を送る羽目になったのだ。
そして怪我が癒えてからは、かつて関係のあったホンダに声をかけ、ディーラーの営業権を譲ってもらい、フェリングという片田舎で細々とディーラーを経営していたらしい。冒頭で触れた通り、ホンダがF1GPに進出する際には、最初にマシンの試作をクーパーカー・カンパニーに依頼していたのだ。
ところで、読者の中にはクーパーSやミニクーパーがあれだけ売れたのだから、さぞやクーパー氏の懐には多額のロイヤリティが入ったのでは、と思う方もおられることだろう。しかし実際にはクーパーSの販売当時は正式な契約書など存在せず、ロード会長との口約束しかなかったために、クーパーモデル1台につき5ポンド(現在の価値でも約1000円)しか受け取れていなかったらしい。
しかもその頃、ミニの販売は低調でクーパーモデルもなく、オースチン・ローバーも青色吐息の状態であったからロイヤリティなど期待できないものだっただろう。
だが80年代後半になって一人の日本人がやってくることで、また運命の歯車が回り出すことになるのだ。その男とは丸山和夫氏。ミニ専門店ミニマルヤマの代表であり、ミニを日本で流行らせた重要人物の一人だ。
彼が英国中を巡ってジョン・クーパーを発掘し、再びクーパーモデルを開発するよう提案したことで、クーパーは奮起、ダウントン・エンジニアリングに在籍したシリンダーヘッドチューニングの神様リチャード・ロングマンなど、かつての仲間の元を巡り、協力を取り付けた。
ジョンクーパー・コンバージョンキットはこうして誕生し、ミニマルヤマからはコンプリートカーも発売された。これによってミニの人気が急上昇すると共に、ローバーがミニ・クーパーを復活させることにつながったのだ。



そこからのサクセスストーリーは想像に易いものであろう。ジョン・クーパーガレージはみるみる大きなミニのディーラーとなった。年を追うごとに店舗を拡張し、小さな販売店だったガレージがひと区画を超えるほどの巨大な施設にまで成長したのだ。
そしてジョン・クーパーはそこでは店舗の看板役に徹し、ミニの納車のために、あるいはクーパーガレージを訪れたファンには喜んで2ショットの記念撮影に応じたという。

まるでマスコットかイメージキャラクターのような役割に徹したというから、かつては傲慢さまで感じられたと伝えられたジョン・クーパーであったが、晩年は好々爺だったようである。今も天国でミニやミニクーパーを愛でるオーナーたちを見て、微笑んでいるに違いない。








