前述のF1GPでのクーパーカー・カンパニーの活躍ぶりは、彼らの技術力とアイデアの素晴らしさを物語るには十分なものだった。さらに米国に渡りインディカーにも参戦。そしてF1GPでの成功を引っ提げて次の挑戦の場に選んだのは、ツーリングカーレースだった。
そこで目を付けたのがミニである。きっかけはクーパーカー・カンパニーのF1ドライバーたちが日頃の足にミニを愛用して、その走りを楽しんでいたことだった。つまり、偶然にも目の前にマシンがあったのである!

小さくて軽いミニのコーナリング性能は、かつてクーパー500が発揮した速さの要素と一致するところがあったのだろう。ミニを開発したサー・アレック・イシゴニスとは友人でもあったクーパーは、ミニの高性能モデルを開発し、ツーリングカーレースに参戦することを持ちかけるのだ。
ところがイシゴニスはミニの性能アップにはまったく興味を示さなかった。もともとモータースポーツは好きだったのだが、ミニはあくまで実用車として開発し、エンジンの排気量を小さくして動力性能を制限したほどだった。よって高性能化には反対した。
しかし諦め切れないクーパーは、なんとBMCのレナード・ロード会長を口説き落とし、高性能モデルの追加を認めさせてしまうのである。そしてミニのエンジンを排気量アップして、フロントブレーキをディスクにし、動力性能を高めたミニ・クーパーを誕生させる。
これはツーリングカーレースやラリーに参加するためのホモロゲーションモデルであった。
しかしそれでもパフォーマンスが不足していると見るや、更なるチューニングを計画するのだ。ところがクーパーはエンジンチューニングの専門家ではないため、ダニエル・リッチモンド率いるダウントン・エンジニアリングに協力を依頼する、ここにBMCとクーパーカー・カンパニー、そしてダウントンエンジニアリングの三強体制が確立されたのであった。
実際にはアーデンエンジニアリングなど、すでに名の知れた実力派チューナーも、このプロジェクトには関わっていた。しかしダウントンのダニエル・リッチモンドのチューニングセンスの前には一般的なチューナーの存在は霞んでしまったのだ。
リッチモンドはミニのA型エンジンのシリンダーボアをさらに広げるため、シリンダーの中心をオフセットさせることを思いつく。これによりA型エンジンのシリンダーブロックは、外側に向かってシリンダーを拡大させることにより、従来よりもボアを広げることに成功するのだ。

これによりクランクシャフトの形状を完全に作り直されることになったが、ベースのエンジンからは想像もできない強力なパワーユニットが生み出された。その結果、作り上げられたクーパーSはモンテカルロラリーだけでなく、BSCC(英国ツーリングカー選手権)でも好成績を収めた。
クーパーカー・カンパニーはツーリングカーのワークスチームとして、再び栄光を手にしたのだった。しかし、BMCとクーパーの蜜月は長くは続かなかった。

BMCはライバルたちが戦闘能力を高め、クーパーSがなかなか勝てなくなると、ワークス活動を縮小させてクーパーカー・カンパニーやダウントンを切り捨てたのだ。現代風に言うならば、日産が瀕死の状態になり、ルノーが買収してカルロス・ゴーンが乗り込んできて、多くの部署や事業を廃止してリストラした。そんな状況に極めて近いと言えるだろう。
1968年、クーパーカー・カンパニーはそんなBMCワークスに対抗するため、ダウントン・エンジニアリングとチームを結成する。自動車用品メーカーのブリタックスをスポンサーとしたクーパー・ブリタックス・ダウントンチームは、ワークスと熾烈な勝負を繰り広げたが、残念なことにその前には常にフォードからワークス活動を委託されていたブロードスピードのエスコートがいたのだった。
その後もジョン・クーパーはミニのパフォーマンス向上を狙ってリアにもクーパーSのパワーユニットを搭載したツインエンジンの4WDマシン、ツイニィの開発に挑んだ。ところがテスト走行中に事故に遭い、重傷を負って長い間の療養を余儀なくされるのだった(続く)。









